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題名また一つ消え去った昭和。
コメント 常連各位

こんばんは。少々憂鬱な気分でアップさせて頂きます。
まずは拙い文章をアップさせて下さい。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
自分の父母は、父は本家の養子に入り本家を継いだので祖父は熊次郎と言う名である、と聞いている。父は兵隊にも行かず、体の弱い人であったと思う。

家業もあまり熱心でなく、母の兄によく力仕事を手伝いに来てもらっていたようだ。
家業は「鹿の子」と言う、シボリの生地で和服の襟を巻く物を作っており、戦時中は人形の頭を造り、それに糸で造った髪で和服を着せて販売していた。

その人形に着せる和服は、「鹿の子絞り」の手法を和紙に応用して造っていた。

やがて太平洋戦争が始まり世の中が戦時色になり人形が売れなくなると、今迄に造った糸で出来た鹿の子絞りを夜店で売るようになり、時々手伝っていた。

その頃の守口はまだ未開発の土地で、家の裏は畑や田んぼが多くあり、田んぼに水を入れる用水路には川魚(フナ、ナマズ、ドジョウ)が沢山居た。

それらの田んぼの遠くに四条畷の飯盛山が見え、麓には片町線の電車が走っているのが見えた。

また京阪電車の守口〜京橋の間の高架線の土盛りに使った土を取り運ぶのに使った土汽車トロッコの置き場が「京阪池」の脇にあった。「京阪池」は土を取るために出来た大きな池であった。

また京阪の守口駅は地上にあり駅の京都側には車庫があり、色々な電車が入っており京阪選を走るすべての電車である。

守口小学校へは守口駅の前の踏切を渡って通学していたので、学校への行き帰りにそこを通るので、車庫の様子もよく判ったのである。車庫の横にあるお寺は毎年暮に報恩講を催す。その度にノドキと云う段返しを面白おかしく二人の大人が台の上で物語ってくれるのである。

また通学路の元禄堤の通りには守口の宿(徳永)、ちょうちん屋(中田)、時計屋、饅頭屋など多くの昔からある店が並んでいたのである。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○


以上の文章は昭和6年に大阪守口市に生まれ、京阪電車と
枚方市をこよなく愛してこの6月3日で81歳の生涯を閉じた、
我が父の回想です。

遺品の整理をボチボチと思い、父が残したノート類を繰っていましたらこの文章を見つけました。(少々アレンジはしてます)

晩年は車椅子生活で自由もままならず、辛い思いをしたでしょうが、昭和のガンコ親父の最期は眠るかの如く安らかでした。


添付は父の愛用のPENTAX SPを借りて撮影した36年ほど前の一枚。

合掌。
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